世田谷区経堂にある内科・小児科やまうちクリニックのスタッフ福田です。今回は、やまうちクリニックの所在地でもある「経堂」について調べてみました。すっかり慣れてしまいましたけど「経堂」って「お経」「お堂」を足したものですから渋い名前ですよね。Wikipediaには以下のように書かれていました。
地名の由来は、かつて御経を納める御堂(経蔵)があったためとされる。また、かつて存在した御堂が京都風の建造物であったために「京堂」と呼ばれ、それが転じて経堂になったともされる。
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%A0%82
経堂という名前の3つの説
経堂という、少し古風で趣のある地名。その由来には、主に3つの説があると言われています。
1. 京都風のお堂があった「京堂」説
一つ目は、この地にかつて京都を思わせるような立派なお堂、つまり「京堂」があったという説です。それが時を経て「経堂」という字に変化したのではないか、というものです。都の文化への憧れが感じられる、雅な説ですね。
2. お経を納めたお堂があった「経堂」説
二つ目は、文字通りの説です。経本を納めた石室の上に小さなお堂が建てられ、それが「経堂」と呼ばれるようになった、というものです。この説が、地名の由来として最も分かりやすいかもしれません。
3. お医者様の書斎が由来となった説
そして三つ目が、最も有力とされる説です。江戸時代初期、この地に松原土佐守弥右衛門(まつばらとさのかみやえもん)という江戸幕府お抱えの漢方医が住んでいました。大変な勉強家であった彼は、屋敷に多くの医学書や学術書を所蔵していました。
近隣の村人たちは、その膨大な書物を「お経の本(経本)」だと思い込み、弥右衛門の屋敷を「お経を納めたお堂」、すなわち「経堂」と呼ぶようになったというのです。この説は、地名が一個人の勘違いから生まれたかもしれないという、人間味あふれる面白いエピソードです。
由来となったのは経堂山福昌寺?
では、その「御経を納める御堂」は現存するのでしょうか?その御堂があったのは、経堂駅南口を降りてすぐ、やまうちクリニックの近所でもある「経堂山福昌寺」という説が伝わっています。
この福昌寺さん、とても歴史が古くて、創建は1624年(寛永元年)とも言われてます。寛永といえば、江戸幕府第3代徳川家光の時代です。この福昌寺を開いた松原土佐守弥右衛門は前述のとおり江戸幕府に仕えた医師だったそう。やまうちクリニックとの繋がりを感じます。
篤い信仰心を持っていた弥右衛門が、自らの広大な屋敷内にお堂を建て、近隣の常徳院から玄畝(げんぽ)という和尚を招いて開山したのが始まりとされています。
彼は医師としてだけでなく、この地域の発展にも大きく貢献しました。歴史的な建物や、百体観世音・梵鐘・彫刻など文化財が存在したのですが、残念ながら1975年(昭和50年)の火災で焼失してしまったそうです。
江戸時代の経堂ってどんなところだったの?
江戸時代の経堂は、豊かな農村地帯でした。その発展を支えたのが、現在の武蔵野市あたりで玉川上水から分水し、品川まで続いていた「品川用水」です。この用水路のおかげで、経堂の田畑は潤い、多くの作物が育てられていました。経堂も豊かな農地であったと言われてます。こうした歴史を知ったうえで地図を見ると、この地に東京農業大が存在するのも納得できます。
実はこの品川用水、その多くは現在暗渠(あんきょ)となっていますが、その跡地は私たちの身近な場所に残っています。それが現在の「千歳通り」です。かつてこの道が、地域の暮らしを支える重要な水路だったと想像しながら歩いてみると、また違った風景が見えてくるかもしれません。
ということで、今回は「経堂」という地名の由来についてまとめてみました。経堂の地名の由来には、いくつかの説があり、そのどれもがこの土地の歴史の深さを物語っています。有力な説とされている「お医者様の書斎」の話は、地名という公的なものが、実は村人たちの勘違いから生まれたかもしれないという、親しみやすさを感じさせてくれます。
街のことを知ると、街を散策するのが楽しくなりそうです。また、気になることがあったら調べてみたいと思います!